11/28/2011

猫間川に内川を重ねあわせて読んだ

椋氏( @Mukunokiy )の 「猫間川をさがせ」を読んだ。Amazonで売ってないなぁと思ったら、これもともと電子ブックだったのね。

大阪の地理についてはまったく頭に入っていないので、いろいろな地名や交差点の名前など、位置関係がぜんぜん思い浮かばないままに読んで、あとでGoogle Mapを見たりした。かろうじて行ったことのある場所は「鶴橋」くらい。それでも街の中に暗渠となってすっかり人々の記憶から消えてしまった「猫間川」に、うちの近くを流れていた「内川」を重ねあわせながら読んだ。


わたしたちが子供だった1970年代、川はドブだった。わたしの父の世代、昭和初期を過ごした人たちは、きれいなせせらぎだった川がドブへと変貌していくのを目の当たりにしている。でも、わたしの世代にとっては、川は最初から汚くて臭いドブだった。内川も呑川も、多摩川でさえドブだったので、川というのは生活上はなるべく近づきたくない場所だった。

内川が暗渠化されることになったのはまさに「臭いものに蓋」、歓迎すべきことだったし、川筋はきれいに整備されて今や古木の立ち並ぶ桜並木だ。川があったことすら知らない人たちが住みつき、そこらじゅうから湧いていた水も枯れてしまった。呑川や多摩川がかなり水質改善した現状をみると、中国の事故隠しよろしく川を土の中に埋めてしまったのは間違った選択だったようにも感じる。

しかし、ドブになる前も、川は昔から人の生活の都合で流路を変えられてきたのだ。

かつて、馬込の谷あいは豊富な湧水があり、そこそこの水量の流れがあったようだが低地の高低差は非常に少ない。崖から流れでた水は一筋の流れとはならず、地下鉄車庫のある道々女木〜梅田のあたりや、今立正大学の工事をやっているあたりからオートバックスや東急ストアのあたりは広大な湿地になってたようだ。多くの住民も知らないそんな土地の記憶が、先の大地震で液状化という形で蘇ってくるのは、不謹慎ながら面白いことだ。

Google Mapで馬込のあたりを見ると、大地と低地がくっきりとわかれていたせいか、道の配置や家の並びが地形にそっているので、かつての川筋がどのようなものであったのかはおおよそ見当がつく。だが、低地のどの部分に蛇行した川の本流があったのかはわからない。川をまっすぐに護岸したあと、低地は整然と区画されてしまったからだ。

「猫間川をさがせ」を読んでからGoogle Mapで大阪の街を見たが、猫間川の流路はまったく見えて来なかった。それは大阪が馬込とちがって起伏のない全面的な低地だったからだろう。それに大阪は馬込とは比べるまでもなく、大昔から人の手の入ってきた土地だ。低地の川は簡単に流路を変更され、溢れるといって掘り下げられ、ドブ川化したときには容赦なく蓋がされた。川に蓋をするように、土地のいにしえの姿も想像ができないように埋め尽くしてしまったようだ。事故を起こした高速鉄道をその場に埋めてしまうがごとく。

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