服部亮英
雲烟の富士=松蔭寺鉢懸松燃ゆる若葉に、晩春の花を交へ、黒い屋根の間から時々立つ鯉幟りの間を砂塵を巻いて自動車は走る。原だ、原の驛だ、松蔭寺の門前に車を停めて白隠禪師の同乗を尋ねた庫裡の玄關の奥に禪師の木造がある烱々たる眼光は水晶を嵌め、この禪道に於ける彼れが偉大さを永遠に語るに足る者である。
本堂の背面に當って荆業塔がある、今は訪ふ人も少ないと見えて花も線香の灰さへも見えぬたゞ松風が折々サッと吹いて來る程の淋しさ門の側にある脊の高い松の木、これはこれはと物識りの水島が歯莖を向き出して説明して呉れた、備前侯が此の道場を訪れたとき、白隠に何か慾しい物はないかと訊ねた、此のとき白隠答へて「今庫裡ですり鉢を割って困っているそのすり鉢をお呉れ」とそのすり鉢を勿體ないと腐れかけた松の梢に冠ぶせた物とも云ひ、白隠が投げたら恰度あの梢に懸って松の腐れが防いだとか傳説は取りどりで此の鉢懸の松は何處にもよくある奴でどこまでが眞か當てにならぬ宿の外れに出た、眼界を遮るものはないが雲煙朦朧として富士の融資を見る事が出來ぬ、残り惜しいが急ぐ旅の仕様もなく、あの邊が富士の頭なんだらう、廣重が畫面に溢れて一番大きく日本一の富士を描いたのも此の邊だらう、茫々たる水田の彼方が富士の根でその上に黑い線のうねりは慥か足鷹山だらう等あやしい案内役の言葉に想像を描きつ〻走る、街道の兩側には今紫雲英の花盛り、松並木の間を呑氣さうに通る飴やは此の邊の景色には相應はしい點景人物だ。
あちこちに點在する鈴川の宿を貫きて疾走する中右に見えた富士が街道の屈曲に從って左の松並木の間に見える左富士の景はちと馬鹿々々しい、彼方よりも警笛を鳴らし乍ら時代後れの鐡道馬車がやって來た。
0 件のコメント:
コメントを投稿