10/17/2013

Safariでmsn産経ニュースにアクセスするとアラートが出る件

MacのSafariでmsn産経ニュースのページにアクセスすると、「セキュリティで保護されていないフォームを送信しようとしています」っていうアラートが毎回出てわずらわしかった。Safariのバグかなと思って検索してみてもあまり有効な情報はなく、「拡張機能をはずしてみろ」などの対処法がいくつかあったが試しても効果がなかった。

あるサイトで、「login.live.comへのアクセスを禁止したら出なくなった」という情報があった。そこで、Safariの「環境設定」から「プライバシー」を選択、Cookieとその他のWebサイトのデータの「詳細...」ボタンをクリック。そこで「live.com」を検索すると、そのサイトのcookieがあったのでそれを削除した。

その後、アラートは出なくなった。(上図は削除後の様子)

9/28/2013

2番はホットかコールドか?

オーディオの話。自宅スタジオの機材を整理しつつ、配線替えなどをしているのだが、これまでTASCAMのパッチベイで不平衡(unbalanced)接続してたものを、中古のdbxのパッチベイを入手したのを機会に平衡(balanced)接続にしてみようかと思ってる。


で、ふと気になってしまったのがキャノン・コネクター(XLRコネクター)とステレオ標準プラグ(TRS)との配線問題。XLRの2番をTRSのTに繋ぐのか3番をTに繋ぐのかで戸惑ってしまった。

最近の機材であれば迷うこと無く2番がホットなのでそれをTに繋ぐのだけど、マイクは35年前のものだし、コンプレッサーは20年前のものだしややこしい。

XLRコネクターには3つのピンがあって、1番がGND、つまりアースであることには混乱がない。平衡接続ではケーブルでの伝送上のノイズを回避するために、もとの位相の信号をホットで、反転させた位相の信号をコールドで送る。(ホット/コールドは線を区別するための呼び名で、熱かったり冷たかったりするわけではない。) 受信側ではコールドで送られた信号を再び位相を戻してホットの信号と合成する。すると、ケーブル上で両線に同じように乗ってしまったノイズは打ち消し合って除去できるという仕組み。

信号の伝送そのものにはホットかコールド、どちらかがあれば事足りるので、たいてい信号線とアース線だけの2本で不平衡接続されるが、引き回し距離が長い上に信号の弱いマイクには3線の平衡接続が標準的だ。

XLRコネクターでは2番をホットとするのが国際標準。だがそれが制定されたのは1992年で、それ以前には2番をホット、3番をコールドとするのがヨーロピアン・タイプ、3番をホット、2番をコールドとするのがアメリカン・タイプと呼ばれていた。マイクでも、カラオケで使うようなマイクをアンプに接続する際には標準プラグが使用されているのが普通で、その場合、マイクのXLR端子のホットを標準プラグのT(tip)、つまり先端部分に繋ぐのが普通だ。

マイクを単独で使用してる場合、2番がどらでも3番がどちらでも音には関係ないのだが、ヨーロピアンとアメリカンが混在すると、ミックスした際に同じ音源の音を打ち消しあってしまう。平衡接続のパッチベイで場合、モノラルの標準プラグの代わりにステレオ標準プラグを使用するが、ホットで統一しようとした場合、XLRの2番と3番、どちらをプラグの先端(T)に繋ぐべきだろう。基本的には持っているマイクや機器、個々の仕様にあたるしかない。

1980年ごろに買ったSHUREの588SBというマイク、マニュアルには"Positive pressure produces positive voltage on pin #2."と書いてある。2番がホットということでいいのだろうか。紛らわしいことに、付属していたXLR-TSケーブルは3番がTに配線されている。

いつ入手したか不明なRoland DR-20というマイクに付属するケーブルは2番がTに配線されている。

MOTU828というオーディオ・デジタル・インターフェースには、マイク用に2つのXLR入力があるが、この機器は比較的新しいので2番ホットでよさそうだ。

1990年ごろに購入したVestax SL-201というステレオ・コンプ/リミッターには各チャンネルのインとアウトにXLRコネクターがあるのだが、マニュアルが見つからない。ネットでは機器の存在すら確認できない。SL-201mkIIは名機だったらしい。

ホット/コールドが逆転して問題があるのはマイクだけで、しかも同時に複数の種類を使う時に限られる。宅録で特に神経質になる必要はないが、ここは基本的に2番ホットで統一しておこうか。


追記(2013/10/1)
Vestax SL-201mkIIの1996年のマニュアルを見たところ、XLRの2番がネガティブ(-)で3番がポジティブ(+)になっている。ということは3番がホット。この前の機種のSL-201も3番ホットと思った方が良さそう。

すべてを2番ホットとみなしてパッチパネルに繋いでおき、パッチパネル上で位相反転のコネクターを用意しておくという手もあるな。いずれにしてもケーブルをちゃんと見分けられるようにしておかないと混乱が増す。

3/01/2013

早い・速い・遅い

この前、テレビでレポーターが発した言葉をわざわざ「血流が早い」と字幕で出していた。今日読んだとあるブログでも「GPUが早い」って書いてあった。まぁタイポと片付けてもいいけど、根本的に「早い」と「速い」とを概念的にわかっとらん人が多いんじゃなかろうか。

もともと日本人にとってはどちらも「はやい」なので、速度が速かろうが時間が早かろうがまったく区別のない概念だ。このふたつが違う概念であるということは、漢字とともにもたらされた外来のもの。だから、間違えやすいのは仕方ないのかもしれないが、やはり書く場合にはちゃんと区別して使いたい。

では「すばやい」は「早い」のか「速い」のか。

基本的に「素早い」と書く。行動を起こすのが「早い」のが「素早い」だと思われる。素早く取り組んでも仕事は遅いかもしれない。

さて、「はやい」の反対の「おそい」を漢字で書けと言ったら、たいてい「遅い」以外に思いつかない。「夜遅い」も「仕事が遅い」もどちらも間違いだという人はいないんじゃないかな。

しかし、英語には「はやい」に「early」と「fast」があるように、「おそい」にも2つの概念「late」と「slow」がある。「早」と「速」の区別のある漢語にも、対応した反対語がないわけがない。だとすると、「おそい」をすべて「遅い」としているのは間違っているんじゃないの?

「早」の反対を調べてみたところ「晩」だった。夜おそい場合、「晩い」とするのがスジ。なるほど、「早晩」って熟語があるな。じゃ、「仕事が遅い」はいいのかというと、実はこれも違った。「遅」は英語のdelayに相当するもので、「おくれる」という意味。速度がおそいというのは「慢」なのだそうだ。

「はやい」に関しては漢字の使い分けが気になるが、「おそい」に関しては国民すべてが間違って使っていて、もうそれを正しいことにしちゃってる。いいかげんなもんだ。

2/28/2013

単純な描写だけでいい。

最近の歌謡曲とかポップスとかの歌詞、えらく感情込めまくってたり、説教がましかったりして面倒くさいなぁ、っていうのが多い。そんなこと思ってたら、最近出会ったふたつの作品、ぐっときた。

ひとつは絵本「ころころころ」。かかりつけの医院で、となりの席で待っていた若いおかあさんがこどもに読んでやってた。色のついた玉がたくさんころがって行くだけ。文章も「ころころころ」ばっかり。どのページも玉がころがってるだけの絵。ころころころ。それだけ。すぐにAmazonで注文して手に入れてしまった。

もうひとつは上野茂都。上野茂都氏はゲルニカの上野耕路氏の弟とのことで、「のぼうの城」のサントラに名前があったので初めて知った。その2001年のCD「あたま金」。三味線の弾き語りが基本で、歌詞は詰将棋やら煮魚の作り方とか。

どちらも単純なのに、いろんな刺激がある。

2/19/2013

amavisの調子がおかしい

2月15日くらいからか、Tiger Serverのメールの調子がおかしい。たまに来ないメールがある。ps xaでタスクを見ると、なんだかclamavの挙動が変。mail.logにも"transport is unavailable" みたいな表示がある。

なんだかよくわからないけど、amavisとclamavとがおかしなことになっているようなので、管理ツールでメールのフィルターを止めてみた。メールは送受信がスムーズにはなったが、なんだかキューに溜まったメールが108つもあり、そいつらが出て行かない。

sudo postsuper -r ALL

ってコマンドでキューを処理させて、とりあえず動かしておく。

8/09/2012

麻原彰晃にとってサリンテロは修行だったんじゃないか

森達也の「A3」を読んで、そんなことを思った。

超絶にたいくつなほど長い本だ。しかも冗長。数々の取材と著者の感想を、言葉の限りを尽くしてまくしたてるように書き綴っている。で、全編を通じて主張しているのは「麻原はすでに正常じゃなくなっているのに、なぜ治療もせずに裁判を続けているのだ。おかしいだろ」ってこと、つまり社会批判だ。読むのに時間ばかりかかったが、結局は主題はそこ。

それでも著者が取材したりオウム信者との手紙のやりとりから見えてきたのは、「麻原彰晃ってけっこう一生懸命に宗教に取り組んできたんだな」っていうことだ。史上類を見ないサリン・テロ事件も、結果の凶悪性とは裏腹に、本人にとって見ると「真面目」に救済達成のために取り組んだカルマのように見える。

オウムは様々なオタク要素の集合体である。ヨガ、超能力、アニメ、兵器、パソコン、それにノストラダムス、フリーメイソン... それらを肯定的に取り込んでいるところが特徴的だ。信者は麻原にマインド・コントロールされていたとの解釈がされているが、麻原自身も含めると、彼らを洗脳したのはテレビと言っていい。

そんなテレビ世代のオタク教団は、コスプレ的な「真似事」はできても、テロ組織のように緻密な計画ができてたようには見えない。彼らの行動は目の前に出された課題に対して修行として取り組むという態度に基づいている。言ってしまえば行き当たりばったりだ。その行動パターンは、麻原自身も例外ではなかった。

キーワードは「マハームドラー」だろう。本書ではカタカナしか記述がないが、「Mahamudra:大手印」と漢訳される。(音写では「摩訶母捺囉:まかぼだら」) チベット密教の長い歴史の中で多様な解釈がなされるようだが、浅学のため正確にはわからない。ただしオウム真理教内では執着を断つために修行課題と捉えられてたようだ。

麻原は信者の絶対的な指導者だったので、弟子に対して様々なマハームドラーを課していた。しかし、最終解脱者を標榜する麻原自身には、マハームドラーを課すべき指導者はいない。よって彼は自分の身に降りかかる事象そのものを、自身のマハームドラーと解釈したのだろう。だから、オウムの行動パターンはすべて対処的であって、計画的・戦略的ではない。

誤解を恐れずに言えば、オウムは善意の人間の集団だ。究極的目標は「救済」であって金銭的・権力的野望ではない。その善意の集団がこれだけ凶悪な事件を起こしすに至ったことを本当に理解しようとするならば、背後にある密教的な世界観を十分に(しかも客観的な眼をもって)勉強しなければとても無理だ。仮に麻原が法廷でしゃべれたとしても、彼の思考過程を正しく解釈はできないだろう。

仏教の「悟り」とは、あらゆる執着から解放されることだという。「仏」という漢字はBuddhaという概念のためだけにあり、それを「ほとけ」と訓じたのは、執着から「ほどけた」状態を意味するからだ。

現在、麻原は獄中で正気を失い、人との会話もできず糞尿もたれながしの状態にあるという。すべての執着から彼は開放され「ほとけ」の状態になっているというのも、彼が起こした事件の凶悪性からして皮肉なことだ。

5/07/2012

ダマされる人々

久々に本の感想文をふたつ。

最初が「毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」。おもしろ人物のオンパレードである。そして「気が知れない」とはこのことだ。まず第一に、この本の著者:北原みのりはエロ雑誌編集者を経て現在女性向けアダルトグッズ販売の会社の代表をしている「コラムニスト」である。内容よりまず著者の経歴に興味がわく。いったい何がどうなって、この裁判を傍聴し、この本を執筆することになったのか。内容よりまずそっちの方が気になる。

事件の関係者のわけのわからなさといったらこれまたびっくり。初めて合って3日ほどで400万を渡してしまう男。睡眠薬をもられたかもしれないのに、もう一度もられてしまってたのかどうか確かめに再会しに行く男。逮捕直前に付き合い始めて、家の火災報知器をきれいに外されてしまっている男、などなど。木嶋佳苗のこれらの人物へのアプローチはかなりストレートだ。彼女に独特の「上手さ」があったにしろ、こんなことでころころとダマされてしまう人たちってなんなんだろう。

裁判からは、ニュースなどから受けていた「殺人事件」の陰惨な印象をまるで感じさせない。殺された被害者はどこまでも脳天気だ。というのも、被害者は自分が殺されるなどということには全く想像もせずに、幸せの絶頂のうちに亡くなっていってる。まるで殺人が流れ作業のひとつの工程として行われているようだ。殺されている側にも殺している側にも「痛み」が一切感じられない。いや、お気の毒ではあるが、被害者は別の意味で「イタい」。

著者の目線は私たちと同じように興味本位であり、その前で明らかにされていく「状況証拠」は笑いなしには人に語れない。「お前が殺してなくて、なんでこの人が死んでるんだ!」っていうくらい、状況証拠は笑っちゃうほどに説得力がある。なんでこんな女にひっかかっちゃうの? とも思うが、逆にそういうことにひっかかりやすい人をよく選別しているなぁと感心すらする。判決後も木嶋佳苗は朝日新聞の手記で自分表現に余念がないのだ。



2つ目、「もうダマされないための『科学』講義」。買ったのも読み終えたのも去年だけど。執筆者のうち菊池誠氏や片瀬久美子氏は原発事故のあとのtwitterでの発言をちらほら見ていたので興味をもった。というのも、科学とニセ科学、疑似科学についてよく発信される方々だから。

結論から言うと、科学とニセ科学、疑似科学ととは、論理的に区別するのはとても難しいということを再認識した。具体例をあげて、何が科学的で何が科学的なようでそうでないかを見分けるのはそれほど難しいことではない。ただ、一般論として抽象化された科学とニセ科学の境界線は見えてこない。

菊池氏は冒頭で科学とニセ科学の定義をあきらめてしまっている。片山氏も個別のケースについて、科学的な解説がつけられている怪しいものたちを列挙しているにすぎない。

伊勢田氏については、どんどんと新たな言葉を定義して簡単な内容をも難解にしているため、何をいいたいのかすら伝わらない。松永氏の考察は以上での思考ゲーム的で、私のtwitter上でのぼやき程度の内容にしか読めない。

結局のところ、「科学=正しい」という構図の勘違いをベースにしているので、こんな頓珍漢な内容の本が出来上がってしまうのではなかろうか。