5/09/2010

東海道漫画紀行(原)--restored


服部亮英
雲烟の富士=松蔭寺鉢懸松





燃ゆる若葉に、晩春の花を交へ、黒い屋根の間から時々立つ鯉幟りの間を砂塵を巻いて自動車は走る。原だ、原の驛だ、松蔭寺の門前に車を停めて白隠禪師の同乗を尋ねた庫裡の玄關の奥に禪師の木造がある烱々たる眼光は水晶を嵌め、この禪道に於ける彼れが偉大さを永遠に語るに足る者である。

本堂の背面に當って荆業塔がある、今は訪ふ人も少ないと見えて花も線香の灰さへも見えぬたゞ松風が折々サッと吹いて來る程の淋しさ門の側にある脊の高い松の木、これはこれはと物識りの水島が歯莖を向き出して説明して呉れた、備前侯が此の道場を訪れたとき、白隠に何か慾しい物はないかと訊ねた、此のとき白隠答へて「今庫裡ですり鉢を割って困っているそのすり鉢をお呉れ」とそのすり鉢を勿體ないと腐れかけた松の梢に冠ぶせた物とも云ひ、白隠が投げたら恰度あの梢に懸って松の腐れが防いだとか傳説は取りどりで此の鉢懸の松は何處にもよくある奴でどこまでが眞か當てにならぬ宿の外れに出た、眼界を遮るものはないが雲煙朦朧として富士の融資を見る事が出來ぬ、残り惜しいが急ぐ旅の仕様もなく、あの邊が富士の頭なんだらう、廣重が畫面に溢れて一番大きく日本一の富士を描いたのも此の邊だらう、茫々たる水田の彼方が富士の根でその上に黑い線のうねりは慥か足鷹山だらう等あやしい案内役の言葉に想像を描きつ〻走る、街道の兩側には今紫雲英の花盛り、松並木の間を呑氣さうに通る飴やは此の邊の景色には相應はしい點景人物だ。

あちこちに點在する鈴川の宿を貫きて疾走する中右に見えた富士が街道の屈曲に從って左の松並木の間に見える左富士の景はちと馬鹿々々しい、彼方よりも警笛を鳴らし乍ら時代後れの鐡道馬車がやって來た。

東京漫画会の写真

先日、馬込の郷土博物館が、東京漫畫会が制作した「東海道五十三次漫画絵巻」を入手したことを書いたが、その東京漫畫会がまさに大正10年の5月からスケッチ旅行に出かけた時の写真が出てきた。とても小さな写真なので解像度がよくない。




上の写真、前列中央が岡本一平だろうか? 残念ながら祖父の顔しかわからない。下の写真では、菅笠かぶった一行がオープンカーで移動するのを歓迎する人たちが囲んでいる様子がうかがわれる。以下に五十三次のビデオを再掲。

5/08/2010

原 松蔭寺のすり鉢松

祖父の亮英が、東海道五十三次漫画絵巻で描いた、原 松蔭寺の鉢懸松。いったいなんだろうと思っていたのだけど、このゴールデンウィークに伊豆と田貫湖に出かけるついでに、絵に描かれた現地を訪ねてみた。

全く事前の勉強なしに松蔭寺に到着すると、そこにはりっぱな松が何本もある、そして門やお堂もとても古くて威厳のある佇まいのお寺だった。ちょうど、何か新築の建物の工事の最中だったが、入り口の観光看板にもなにやら地元を代表するお寺であることがうかがえる。

それで、みまわしてみると、ありました巨大な松。避雷針まで取り付けてある。その避雷針の横に、なにか茶色のボウルのようなものがかぶせてある! なるほどこれかぁ、鉢懸松は。でも5月というのに葉が茂ってないですねぇ。で、なんでまた鉢がかぶさっていて、祖父はそれを画題に選んだのでしょう。

実はこれ、地元では大変有名なエピソードがありました。江戸時代、今から300年程前、この松蔭寺に白隠慧鶴というお坊さんがいたそうな。松蔭寺は禅宗の寺で、白隠さんは禅宗の中興の祖とされるほど高名な方。その白隠さん、大名からもらったいくつかのすり鉢のひとつを、台風で折れてしまった松に水が入って腐らないようにかぶせてやった。すると松も元気にすり鉢をかぶったまま育っていったというお話。(だいぶはしょってる。)

松は地元で「すり鉢松」として名が通っているようで、原には「白隠すり鉢もなか」というものまであるんだって。

今現在、松がかぶっている鉢は当時のものではなく、昭和60年に懸けられたものだそうだが、祖父たちがここを訪問したのは大正10年、そのころの鉢は江戸時代のものだったのでしょうか。

当日はあいにく富士山が雲の中。でもこの後、田貫湖に着くと富士山が雄大な姿を見せてくれた。

次の日は雨。静岡県立美術館に行って、再び伊藤若冲の絵を見てきた。若冲も白隠慧鶴とほぼ同時代の人。今回の小旅行は江戸時代へのトリップだった。

ナイジェリア詐欺

MacBookをYahoo! Auctionに出品したら、次のような質問が寄せられた:

Hello Seller, Mr kibalo jally I will like to Buy your item Paste on Yahoo Auction to my son i will like to offer you $2,000:00USDollar including the shipment to my Son By EMS to Nigeria i want you to contact me to myvE-mail(kibalojally@gmail.com) i will like you to send me your Bank Account Information Details, Account Name: Account Number: Bank Name: Bank Address Thanks.

新品で、より性能の良いMacBookが10万しないで買えるというのに、中古に$2,000出すような取引を持ちかけること自体、明らかに詐欺目的なのだが、この類、「ナイジェリア詐欺」と言われているそうだ。ただし、廉価版詐欺。


The above quote is the message posted to my auction page of MacBook.   You can buy a brand new MacBook, which is far better than mine, at under $1,000.  This is a self-proved fraud.  I learned that this kind of phishing is called Nigerian Scam.  The cheap version, though.

4/29/2010

CDSDAudioCaptureSupport.kextは正しくインストールされていない

iTunesとかがアップデートした際にインストールを行うと、このようなアラートが出ることがあるが、何事? と思うと、これがRoxioのToastに付随するCD Spin Doctorの関連ファイル。Toastもよくアップデーターが出るが、その時Toast本体のみアップデートを実行してCD Spin Doctorは立ち上げてないことがある。それがいかんらしい。Toastのアップデート後にCD Spin Doctorを最初に立ち上げると、こちらもアップデートのインストール・プログラムが立ち上がる。そしてめでたく当該ファイルもアップデートされるということのようだ。

フロッピーの話 第4話

まぁまぁの寿命の長さだった3.5インチのパソコン用フロッピーに比べ、極端に短い寿命だったのがワープロのフロッピーだった。

私が大学3年生の時、父がOASYS 100Sという70万くらいする高額なワープロを買った。4年生になって卒論を書く際にそれを半年くらい借りて、まず発表用原稿を書き、それを編集して卒論を書いて提出した。日本語ワープロで卒論を書いた最初の世代だ。当時、卒論はたいてい手書きで、担当教授に赤を入れられるたびに清書しなおすのが普通だった時代に、超効率良く文章を仕上げることができた。なにせ、思いついたことから書いていけば、文章の入れ替えや章立ての変更は後からできるのだから、リニアに書いていかなければならない手書きとはまったく違う。「ワープロは教育的でない」などとわけのわからないことをいう先生とかもいたっけ。


で、そのOASYS 100Sのフロッピー、他のOASYS 100シリーズとまるで互換性がない。そもそもOASYSのフロッピー自体、富士通純正の専用のものしか使えないという、今では到底考えられない仕組みを採用していて、もちろんMS-DOSとの互換性も全くなかった。特にOASYS 100Sのフロッピーは早々に見捨てられ、そこに保存した文書はOASYS 100Sでしか読み込めないというひどい状況。70万もしたワープロがそんなことでいいのかと思うが、当時ワープロは100万以上があたりまえで、オフィスでも1台を社員が予約しながら共同で使うというものだった。なので見捨てられたのは比較的安い方の機械ということではあるが、それでも70万だ。

OASYS専用のフロッピーとは言っても、なんらかハックする方法はあったようで、WizardryというPC98用のフロッピーバックアップソフトを使うと、セクターごとコピーするので一般に販売されているフロッピーもOASYS用に転用できた。セクターが読めるのなら、なんとか中身を吸い出す手段はあるのだろうが、プログラマーではないのでそんなものは作れない。OASYS 100Sは、同機種同士をつないでデータ通信するオプション・プログラムはあったが、そんなものは使う機会もない。結局、OASYS 100Sで作られた文書は、複数のフロッピーに保存したとしてもプリント以外に出口がないまま、腐るのを待つだけである。

話は変わるが、数年前に見つけて興味を持って買ったものに、Individual ComputerのCatweasel MK3というのがある。これは実は独立したフロッピー・コントローラー付きのPCIボードで、ドライバをインストールすれば、XPから多様なフォーマットのフロッピーを読むことができる魔法の機器だ。MacのGCRフォーマット400KB、800KBにも対応してたりするので、これと5インチ・ドライブ使えば古いフロッピーからデータを吸い出すことができるかもしれない。けど、買っただけでちゃんと試してないところが、私のだめなところ。

おわり 第1話に戻る

4/28/2010

フロッピーの話 第3話

90年代前半まで、日本のオフィスで主役のパソコンはNECの9801シリーズだったので、それが採用している2HD 1.2MBのフロッピーは間違いなく業界標準の地位にあった。AXパソコンやJ3100など、IBM PC互換を謳ったパソコンでも1.2MBのフロッピーが読めなければ市場に入り込めない状態が続いていた。だが、DOS/Vの登場とWindows 3.1の登場でNECのポジションが揺らぐ。圧倒的に安価なパソコンが供給されはじめ、Windowsが過去のソフトとの互換性の問題を絶ち切ってしまったのだ。NECも9821でIBMと同じ1.44MBのフロッピーを採用することになった。

そしてWindows 95の登場。これによって、ユーザーはついにPC-98の流れと決別することになった。そしてようやくフロッピーは2DD 720KB、2HD 1.44MBが標準となる。しかし、1.2MBのフロッピーの読み書きができる3モード対応のフロッピー・ドライブは今でも販売されている。一方で、2DD 640KBのディスクに書き込まれたデータは、もはや読み出すことができなくなってしまった。

その3年後の1998年、ついにフロッピー・ドライブを持たないコンピューターiMacが登場。小サイズのデータ交換はネットワークを通じて行うことが一般化することとなった。iMacの登場後も、フロッピー・ドライブはUSBで増設されてしばらく使われ続けたが、Macユーザーにとって重要なことは、ここでついに400KB、800KBのフロッピーが切り捨てられ、そこに蓄積されたデータやアプリは全く読み出せなくなってしまったということだ。MacGolf、Studio Sessionなどのソフトとのお別れだ。さらにその3年後の2001年、OS Xのデビューで、Macはフロッピーとほぼ決別することとなった。現時点で、USBでフロッピー・ドライブを接続しても、Snow Leopardではフロッピーにまともに読み書きできない。

そのかたわら、PCがフロッピー・ドライブを搭載しなくなったのはMacより5年はあとだ。自作PCではあいかわらずフロッピー・ドライブは搭載されつづけてきた。ハードディスクなしに手軽にPCを起動させることができるメリットがあったからだろうか。だが、この2〜3年でUSBフラッシュ・メモリーが低価格化し、そこからの起動も簡単にできるようになると、ついにフロッピーにも終焉の時が来たのだなとしみじみと感じる。

振り返ってみると、フロッピーはデータの交換に重宝してきたようだが、わりと互換性には問題があったのだなと思う。記録したものを読める環境がなくなるというのはかなり致命的な問題だ。文書をいくら電子化しても、読めなくなっては意味がない。結局、紙に印刷したものの「記録力」の方が高かったということになる。

ハードディスクにしても、今やSASI、SCSI、PATAといったインターフェースが過去のものとなろうとしている。MO、ZIPなど、もっと短命なメディアもあった。

民生品に目を向けると、レコード、カセットテープ、DAT、VHSビデオ、そしてMDさえも過去のメディアとなりつつある。ある媒体にアーカイブされたものは、それを読み出す装置なくしてはなんら意味を持たない。

結局のところ、データを保存するためには、いつも最新のメディアに最良の状態でコピーし続けるしかないということだ。しかも、分散して同じものをできるだけ大量に。コピー・プロテクトがくだらない考えだと思う根拠はこういうことだ。

...もうちょっとつづく