5/20/2010

テアトル銀座

今日、父から聞いた話によれば、かつて映画館のテアトル銀座に祖父:亮英が「四季」をテーマに4面の壁画を制作したのだそうだ。東京テアトル社のウェブ上の資料によれば、テアトル銀座がオープンしたのが1946年、昭和21年なので一応戦後だ。だが、その壁画は焼失してしまったとのこと。その後、同じ場所かどうかは定かでないが、シネラマ館テアトル東京が1955年にオープンしている。

祖父の描いた大きな油絵の中に、千葉の牧場の馬のいる風景画があるのだが、これが大連の駅にあったという噂があることを叔父から聞いた。

これらについて、何か写真資料はないものだろうか。

星薬科大講堂の壁画

文士村ガイドの会の関さんから、「星薬科大に文士村の画家6人が描いたという壁画があり、見せてもらえることになった」とのメールをいただいたのが2010年5月10日。私の祖父もその6人の中のひとりだとのことで、その見学に同行させてもらった。

そもそも、星薬科大の壁画に祖父が関わっていたなどという話は聞いたことがなかったので、正直びっくりした。父に聞いてみても「なんかそんなことがあったような覚えはある」程度で、いったいどのような経緯で仕事が持ち込まれたのかもよくわからないまま、実物を鑑賞することになった。

星薬科大がそこにあるということぐらいは承知していたが、実際に近づいたこともなく、ましてやキャンパス内に入るのはもちろん初めてだ。まずは、その講堂の外観の威容に圧倒された。大正13年に建てられたとのことなので、この白いコンクリートの偉大な構築物はすでに80年を超えて現代に存在している。にもかかわらず、その構造といい質感といい、現代建築よりもよほど頑強な印象を保っている。メインテナンスの賜物とも言えるのだろうが、それにしても現役で利用されている建物としての状態の良さに驚かされる。

ドアを開けて内部に入ると、ロビーは3階までの緩やかなスロープの折り返しにより構成されていた。そしてすぐさまその壁画は目に飛び込んでくる。左右の壁面をほぼ埋めるように、並行四辺形の巨大なキャンバスの油絵が描かれている。「推古時代の鹿茸狩り」をテーマに、様々な薬草を採取する女性たちの姿だ。2階から3階にかけては、それよりもさらに大きなキャンバスに、鹿の群れやそれを追う男たちの群像が描かれていた。

詳しいことはまだよくわからないのだが、1956年に関口氏による補筆がなされていることから、おそらくは全体を関口隆嗣画伯が構成し、それにしたがって祖父を含む他の5人が筆をふるったのではなかろうか。絵は大きすぎて写真で全体をいっきに捉えることができない。この絵の迫力は実際にその場に行かなくては「体験」できないものだが、ビデオに雰囲気のみを収めておいた。

5/09/2010

東海道漫画紀行(原)--restored


服部亮英
雲烟の富士=松蔭寺鉢懸松





燃ゆる若葉に、晩春の花を交へ、黒い屋根の間から時々立つ鯉幟りの間を砂塵を巻いて自動車は走る。原だ、原の驛だ、松蔭寺の門前に車を停めて白隠禪師の同乗を尋ねた庫裡の玄關の奥に禪師の木造がある烱々たる眼光は水晶を嵌め、この禪道に於ける彼れが偉大さを永遠に語るに足る者である。

本堂の背面に當って荆業塔がある、今は訪ふ人も少ないと見えて花も線香の灰さへも見えぬたゞ松風が折々サッと吹いて來る程の淋しさ門の側にある脊の高い松の木、これはこれはと物識りの水島が歯莖を向き出して説明して呉れた、備前侯が此の道場を訪れたとき、白隠に何か慾しい物はないかと訊ねた、此のとき白隠答へて「今庫裡ですり鉢を割って困っているそのすり鉢をお呉れ」とそのすり鉢を勿體ないと腐れかけた松の梢に冠ぶせた物とも云ひ、白隠が投げたら恰度あの梢に懸って松の腐れが防いだとか傳説は取りどりで此の鉢懸の松は何處にもよくある奴でどこまでが眞か當てにならぬ宿の外れに出た、眼界を遮るものはないが雲煙朦朧として富士の融資を見る事が出來ぬ、残り惜しいが急ぐ旅の仕様もなく、あの邊が富士の頭なんだらう、廣重が畫面に溢れて一番大きく日本一の富士を描いたのも此の邊だらう、茫々たる水田の彼方が富士の根でその上に黑い線のうねりは慥か足鷹山だらう等あやしい案内役の言葉に想像を描きつ〻走る、街道の兩側には今紫雲英の花盛り、松並木の間を呑氣さうに通る飴やは此の邊の景色には相應はしい點景人物だ。

あちこちに點在する鈴川の宿を貫きて疾走する中右に見えた富士が街道の屈曲に從って左の松並木の間に見える左富士の景はちと馬鹿々々しい、彼方よりも警笛を鳴らし乍ら時代後れの鐡道馬車がやって來た。

東京漫画会の写真

先日、馬込の郷土博物館が、東京漫畫会が制作した「東海道五十三次漫画絵巻」を入手したことを書いたが、その東京漫畫会がまさに大正10年の5月からスケッチ旅行に出かけた時の写真が出てきた。とても小さな写真なので解像度がよくない。




上の写真、前列中央が岡本一平だろうか? 残念ながら祖父の顔しかわからない。下の写真では、菅笠かぶった一行がオープンカーで移動するのを歓迎する人たちが囲んでいる様子がうかがわれる。以下に五十三次のビデオを再掲。

5/08/2010

原 松蔭寺のすり鉢松

祖父の亮英が、東海道五十三次漫画絵巻で描いた、原 松蔭寺の鉢懸松。いったいなんだろうと思っていたのだけど、このゴールデンウィークに伊豆と田貫湖に出かけるついでに、絵に描かれた現地を訪ねてみた。

全く事前の勉強なしに松蔭寺に到着すると、そこにはりっぱな松が何本もある、そして門やお堂もとても古くて威厳のある佇まいのお寺だった。ちょうど、何か新築の建物の工事の最中だったが、入り口の観光看板にもなにやら地元を代表するお寺であることがうかがえる。

それで、みまわしてみると、ありました巨大な松。避雷針まで取り付けてある。その避雷針の横に、なにか茶色のボウルのようなものがかぶせてある! なるほどこれかぁ、鉢懸松は。でも5月というのに葉が茂ってないですねぇ。で、なんでまた鉢がかぶさっていて、祖父はそれを画題に選んだのでしょう。

実はこれ、地元では大変有名なエピソードがありました。江戸時代、今から300年程前、この松蔭寺に白隠慧鶴というお坊さんがいたそうな。松蔭寺は禅宗の寺で、白隠さんは禅宗の中興の祖とされるほど高名な方。その白隠さん、大名からもらったいくつかのすり鉢のひとつを、台風で折れてしまった松に水が入って腐らないようにかぶせてやった。すると松も元気にすり鉢をかぶったまま育っていったというお話。(だいぶはしょってる。)

松は地元で「すり鉢松」として名が通っているようで、原には「白隠すり鉢もなか」というものまであるんだって。

今現在、松がかぶっている鉢は当時のものではなく、昭和60年に懸けられたものだそうだが、祖父たちがここを訪問したのは大正10年、そのころの鉢は江戸時代のものだったのでしょうか。

当日はあいにく富士山が雲の中。でもこの後、田貫湖に着くと富士山が雄大な姿を見せてくれた。

次の日は雨。静岡県立美術館に行って、再び伊藤若冲の絵を見てきた。若冲も白隠慧鶴とほぼ同時代の人。今回の小旅行は江戸時代へのトリップだった。

ナイジェリア詐欺

MacBookをYahoo! Auctionに出品したら、次のような質問が寄せられた:

Hello Seller, Mr kibalo jally I will like to Buy your item Paste on Yahoo Auction to my son i will like to offer you $2,000:00USDollar including the shipment to my Son By EMS to Nigeria i want you to contact me to myvE-mail(kibalojally@gmail.com) i will like you to send me your Bank Account Information Details, Account Name: Account Number: Bank Name: Bank Address Thanks.

新品で、より性能の良いMacBookが10万しないで買えるというのに、中古に$2,000出すような取引を持ちかけること自体、明らかに詐欺目的なのだが、この類、「ナイジェリア詐欺」と言われているそうだ。ただし、廉価版詐欺。


The above quote is the message posted to my auction page of MacBook.   You can buy a brand new MacBook, which is far better than mine, at under $1,000.  This is a self-proved fraud.  I learned that this kind of phishing is called Nigerian Scam.  The cheap version, though.