森達也の「A3」を読んで、そんなことを思った。
超絶にたいくつなほど長い本だ。しかも冗長。数々の取材と著者の感想を、言葉の限りを尽くしてまくしたてるように書き綴っている。で、全編を通じて主張しているのは「麻原はすでに正常じゃなくなっているのに、なぜ治療もせずに裁判を続けているのだ。おかしいだろ」ってこと、つまり社会批判だ。読むのに時間ばかりかかったが、結局は主題はそこ。
それでも著者が取材したりオウム信者との手紙のやりとりから見えてきたのは、「麻原彰晃ってけっこう一生懸命に宗教に取り組んできたんだな」っていうことだ。史上類を見ないサリン・テロ事件も、結果の凶悪性とは裏腹に、本人にとって見ると「真面目」に救済達成のために取り組んだカルマのように見える。
オウムは様々なオタク要素の集合体である。ヨガ、超能力、アニメ、兵器、パソコン、それにノストラダムス、フリーメイソン... それらを肯定的に取り込んでいるところが特徴的だ。信者は麻原にマインド・コントロールされていたとの解釈がされているが、麻原自身も含めると、彼らを洗脳したのはテレビと言っていい。
そんなテレビ世代のオタク教団は、コスプレ的な「真似事」はできても、テロ組織のように緻密な計画ができてたようには見えない。彼らの行動は目の前に出された課題に対して修行として取り組むという態度に基づいている。言ってしまえば行き当たりばったりだ。その行動パターンは、麻原自身も例外ではなかった。
キーワードは「マハームドラー」だろう。本書ではカタカナしか記述がないが、「Mahamudra:大手印」と漢訳される。(音写では「摩訶母捺囉:まかぼだら」) チベット密教の長い歴史の中で多様な解釈がなされるようだが、浅学のため正確にはわからない。ただしオウム真理教内では執着を断つために修行課題と捉えられてたようだ。
麻原は信者の絶対的な指導者だったので、弟子に対して様々なマハームドラーを課していた。しかし、最終解脱者を標榜する麻原自身には、マハームドラーを課すべき指導者はいない。よって彼は自分の身に降りかかる事象そのものを、自身のマハームドラーと解釈したのだろう。だから、オウムの行動パターンはすべて対処的であって、計画的・戦略的ではない。
誤解を恐れずに言えば、オウムは善意の人間の集団だ。究極的目標は「救済」であって金銭的・権力的野望ではない。その善意の集団がこれだけ凶悪な事件を起こしすに至ったことを本当に理解しようとするならば、背後にある密教的な世界観を十分に(しかも客観的な眼をもって)勉強しなければとても無理だ。仮に麻原が法廷でしゃべれたとしても、彼の思考過程を正しく解釈はできないだろう。
仏教の「悟り」とは、あらゆる執着から解放されることだという。「仏」という漢字はBuddhaという概念のためだけにあり、それを「ほとけ」と訓じたのは、執着から「ほどけた」状態を意味するからだ。
現在、麻原は獄中で正気を失い、人との会話もできず糞尿もたれながしの状態にあるという。すべての執着から彼は開放され「ほとけ」の状態になっているというのも、彼が起こした事件の凶悪性からして皮肉なことだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿